〜古来より人は、この世の何でもかんでもを、空に浮かばせる事に長けていた。
宙空には紙や鉄で出来た飛行機、モールス信号の打突音、携帯電話の電波、仄かな想いや恋心、ときどきテレパシー、中には抜け落ちた奥歯なんかが願掛けと共に浮かび上がらされ、はるか空の縁で網の目を作り上げていた。
また遠く宇宙には、人工衛星や宇宙ステーション、餅を付くウサギ、果ては神話のエピソードに登場する架空の動物たちや道具なんかを、いくつもの天体と天体とを線で繋ぎ合わせて顕現させ、目に見える限りの天空いっぱいに描き、浮かばせていた。〜
星座の光と人工衛星の点滅、コンビニ前に屹立する電灯の明かりと明るすぎる月光の明度。
地上に降る光の宴会を視界の端に収めながら、少年はじっと、その夜の空のうるさい様を見据えていた。同じうるさいなら空の方がいい、と考えながら。
少年は地上の色んなやっかみ事に辟易していて、その全部に吐き気を覚えるようになっていた。宿題、マラソン、友達、先生、お母さん、お父さん、少年の周りにあるものは皆、やっかみ事の種であり実であり、同時に吐き気の根源であり、少年にとってのひとまずの希望はこの場所にはないと感じていた。
夜空には、星たちの明滅の隙間を縫ってあらゆる電波や信号や想いやらが、目に見えない網を張っている。その流れを絶つように、少年は少年の願いを一つ、空に飛ばす。重く念をかけられた願いは、ただ中空に浮かび、夜空の縁へと消えていくのみ。
少年は次に、ベランダの物干し竿に吊るされていたハンガーを手に取り、空へ念じ放り投げる。くるくるとブーメランよろしく円弧を描いたハンガーは、しかし手元には戻らない。見えない上昇気流に乗ったかのごとく、夜空の縁へと浮かんで光る。
目に見えるものが空へと浮かぶ不思議。少年の心は躍る。
せんたくばさみ、植木鉢、物干し竿にスリッパ、それぞれに念を掛け空へと放ると、それらはやっぱり、空へと昇り、消えて光る。
何でもかんでもを空に浮かばせるうち、少年は、自分も空に浮かびたいと心に願いはじめる。消えて光って星のようになった物たちと一緒に、騒々しい夜空の深みで暴れてみたいと考える。ちっともつまらない地上から浮かび上がり、何だか楽しそうな空の只中で面白おかしく過ごしてみたいと祈る。
必然的な思いつきに従い、少年はうんと重い念を自分に掛け、ベランダの縁に乗せた足先から、暗闇の窓辺へと自分を放り投げる。風のない上昇気流が少年の体を揺らす、持ち上げる。くるんと引力が反転し、下腹部をふわりとなぞる斥力が少年を空へと浮かばせる ---
--- 気付くとそこは、夜空の只中だった。あらゆる光点がざわめき、人の想いたちが全くちぐはぐな井戸端会議を催し、欠けることのない月やすばる星の明るさは昼間のごとしで、少年はすっかり空の世界に魅了された。まったく、気に入ってしまったのだった。不安ややっかみ事は引力の重さと一緒に地上に置き捨ててきてしまったようだった。電波や信号や想いやらが編み上げた透明の救助ネットが少年の足元に広がっていて、落下の可能性はあれど、大怪我をする心配はどこにもなかった。
空の只中、少年は神話の登場人物たちから彼らの昔話を聞かされ、誰かしらの投げ放った想いを拾い上げては胸打たれ、電波に乗って飛んできたメールを盗み見、宇宙ステーションの住居ブロックの屋根に風呂敷を広げ、真っ暗闇のピクニックに興じ、錯綜するテレパシーや信号たちの発する謎かけを解こうと躍起になったりして、空を満喫した。
空は、地上から見たときと変わらず真っ暗な空間だったが、愉悦と好奇の光点がそこかしこで点滅していて、それら全部に、少年はすっかり満足していた。
夜と朝と日暮れとが何度か巡った頃、少年は騒々しい空の光の中で、退屈を覚えた。光点は未だあちこちで輝き、神話の物語は佳境に入り、誰かが誰かに送ったテレパシーのなぞなぞも解けずじまいだったが、それら好奇な何もかもは結局、少年の心を射止めたものの少年の声に耳を傾けてくれることはなかった。何もかもが独りよがりのモノローグに過ぎず、みんな勝手に明滅を繰り返すばかりで、空にはやっかみ事すら在らねど、分かち合う楽しみもないのを知った。少年は、地上にいたときとはまるで違う孤独をようやく身に覚えはじめた。真空の宇宙が持つうそ寒さが、少年の体を震えさせていた。
帰りたくなかった地上は依然眼下に広がっていて、少年はその地上にまたたく、煌びやかな光の明滅を一人見据えていた。
夜空を見上げ、空へと逃げ浮かんだ日に見た、楽しげな光宴。それに似た騒々しさは地上にもあり、物語はそこで毎日更新され続け(夜空の神話は、結局完結された昔話でしかないのであった)、分かち合うための対話はそこかしこで行われ、行き先の決まっている意思強きメールや手紙が網の目を形作り、明らかな“生活”が営まれていることに、少年はようやく気付いたのだった。
少年は地上に降りる決意を固める。やっかみ事の苦痛を強いられてでも、他人と生活する温度を欲する気持ちを新たに興す。夜空と同じくらいの光がまたたく、窮屈な地上へ向けて、宇宙ステーションの縁に足を乗せ、一気に体重をかける。
宙空を駆け降りるはずだった少年の体は、しかし見えない網の目に全身を捉えられ、トランポリンよろしく元いた空間まで跳ね上げられる。地上から浮かび上がった他人の想念や公共の電波は、少年の予想を越えた情報量をもって網目を作っていて、その体を地上に降ろすことを頑なに拒んでいるようだった。
幾度かの挑戦のあと、少年はいよいよ絶望していた。しかしそれは、ただただに真っ当な結果であった。つまり人は、古来より世の何でもかんでもを空に上げ放つことを得意とはしていたが、空に浮かんだ何でもかんでもを地上に戻す技術については、からきし研究を怠っていたのであった。
人が浮かばせた何でもかんでもの雑然とした煌めきの中、少年はただ成す術もない。
想念たちが広げるちぐはぐで意味不明な井戸端会議と、何十回と聞き飽きた神話の物語と、闇雲にうるさい光の明滅とに追いやられ、物言わぬ宇宙ステーションの縁でじっと座り込み、夜空のように幻想的で楽しげな地上の光を見据えるのみ。